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「炭の古道」を探る その1

元禄4年(1691年)に開山した別子銅山。
元禄11年(1698年)には年間1,521トンの銅を産出し、当時、世界一を誇ったといわれます。

この精錬工程で必要になるのが燃料であり、石炭が普及する明治中期まで、その中心は薪と木炭でした。
また、木材は燃料用ばかりでなく、建物や坑道用に必要でした。

当時の資料から単純に積算しても、毎年数千トン以上の雑木が必要になり、銅山周辺の山野から、数年で成木はなくなったはずです。

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上の写真 「棹銅」(さおどう、純度の高い精銅。大坂で粗銅(荒銅)から更に精錬された後、この姿で長崎から輸出されました。)


蒔、木炭の供給地は、年を追うごとに遠方に拡大しました。

銅山を中心に、馬で蒔・炭などの燃料を運んだ旧道は伸びてゆき、要所には中継所も整備されました。
今では「炭の古道」と呼ばれ、その一部は登山道となっていますが、その全貌と具体的な位置は明らかになっていません。

ただ、その西端としては、現在の西条市加茂、南端は高知県いの町、大川村、東端は四国中央市と目されます。

古道の範囲が東西で数十キロ、南に十キロ程度に及び、その道の先にある炭山・炭焼が供給地であることを考慮すれば、四国中央部の広大な林野が、別子銅山のエネルギーと資材を支えていたことが分かります。 

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 先日、古道の現状を探ろうと、国道194号を南下し、西条・川来須(かわぐるす)、吉井地区に向かいました。川来須の国道脇に入ると、道としては荒れていますが、石積が残されていました。

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山の中腹まで来ると、
ほぼ完全な形で道が
残っている箇所もありました。

石を積み上げる膨大な労力に
感慨もひとしおです。

道の幅は1メートル程度で、
馬一頭が炭を背に載せて
せいいっぱいでしょう。

その2につづく。

H・Iでした。

by ehimeblog | 2010-08-24 13:00 | 東予地方の観光

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