「炭の古道」を探る その2

「炭の古道」はいつごろまであったのか? 
当地で林業に携わっていた方に聞くと、少なくとも昭和30年代まで残っていたとのことです。

下の写真は、西条市川来須(かわぐるす)の古道跡から、谷筋をまたいで対面にある扇山の様子です。
古来、多くの炭焼や中持(運搬人)が見上げたことでしょう。

「遠町深鋪(えんちょうふかじき)」・・・
鉱山の経営が長期化すると、燃料や食料などの物資運搬にかかる距離が長くなり、採掘も地下深くなって湧水処理が大作業になることを示す言葉です。

別子銅山も元禄の開山以降、数十年でこの問題に直面しました。
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愛媛から高知に抜ける国道194号の下津池から山道に入り、その終点の登山道入口から90分あまり登ると宿(「しゅく」高度約1300m付近)に着きます。

炭の集積所があった要衝ですが、既に建物など構造物はありません。
朽ちて通れない、苔むした橋が往時を想起させます。
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宿から、笹ヶ峰~沓掛山(くつかけやま)の稜線、西山越に向かう途中に、細かく砕かれた炭が道全面に残っていました。
炭の置場の跡でしょうか? 正に炭の道です。
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稜線から先の古道は崩落していました。
古道は、ほぼ同程度の高さを保ちつつ、山を巻くように整備されていたとのこと。
この先を沢沿いに下れば、県道47号(新居浜別子山線)、マイントピア別子に行きあたります。
あとひと山を越えれば、旧別子地区にたどり着く地点です。
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炭の古道の多くは今や草の中に隠れていますが、当時の人々にとっては、現在の高速道路以上に産業と生活を支える重要な道でした。
炭は別子銅山を支えるエネルギーであり、一方では、山の人々に貴重な現金収入をもたらして生計を支えたのです。
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 以上 H・Iでした。

by ehimeblog | 2010-08-25 08:30 | 東予地方の観光

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