青々とした別子の山にて  ―その2―

 別子の山々が、木材の伐採によってはげ山と化したことは前回にご紹介しました。明治に入ると、更に大きな問題が発生します。
 別子銅山は、西洋式の先端技術を導入して近代化を進めた結果、産銅量は飛躍的に増加しました。ところが、近代的な製錬所からの煙が、周辺の農産物に被害を与えるという煙害問題が、明治26年、1893年に発生・顕在化したのです。

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       【山根えんとつ山 (出典:住友史料館)】

 わが国で環境問題が公害として認識されたのは、現在から100年以上の前のことで、栃木県の足尾鉱毒問題と、愛媛県の別子煙害問題が原点とされています。
 住友・別子銅山支配人として、伊庭貞剛(後の住友総理事)が新居浜に赴任したのは、ちょうどこの頃です。


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         【伊庭貞剛(出典:住友史料館)】

 伊庭は、荒廃した別子の山々を見て「別子全山を旧の青々とした姿にして、之を大自然に返さねばならない」と、意志を固めます。明治27年、1895年2月には山根製錬所を閉鎖、更に水も出ない無人島の四阪島を自費で購入して、新しい製錬所の地として決定します。人里離れた場所で製錬すれば被害は無くなり、原因を根本から取り除けると期待したのです。

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             【四阪島】

 この四阪島製錬所は、明治30年、1897年に工事が開始、8年後にようやく操業されます。ただし、伊庭が心血を灌いだこの四阪島製錬所が、逆に煙害を東予一円に拡大させることになろうとは、当時、予想だにしていませんでした。結局、煙害問題が根本的に解決されるのは、昭和14年、1939年の四阪島の中和工場完成まで待つことになります。
 
 一方、伊庭は別子の山に対し「大造林計画」をたて、実行に移します。明治30年には年間90万本の檜と30万本の杉を植林しました。その後、山林事業は住友の事業として受け継がれ、多いときには年間250万本近くにも及ぶ植林がなされ、伊庭が赴任した年から数えて20年の間に、別子の山には実に3千万本を超える植林が為されました。


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     【別子 植林統計 (出典:住友資料館)】

 現在、別子の山々は、ここで鉱山業が展開されたとは思えないほど深い緑に囲まれ、その中で鉱山の遺跡がひっそりと佇んでいます。この植林は、鉱山の大量な採鉱・製錬が引き起こした環境問題に対する百年前の答えでした。
 この植林活動が現在の住友林業㈱のルーツであり、煙害の原因である亜硫酸ガスの脱硫技術の研究から化学肥料が生み出され、住友化学㈱の成立に繋がりました。正に、地域が直面していた大問題の解決を図ることが、現代に繋がる新しい産業を生み出したのです。

 伊庭は、後日、新居浜に赴任していた5年間を振り返って、友人の品川弥二郎(明治元勲の1人、松陰門下)への書状で「五ケ年の跡見返れば雪の山」と詠みました。これに対して品川は、「月と花とは人に譲りて」と付け句を返しています。


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伊庭の志は、今も、東予、別子の山々に息づいています。

【耳寄りな情報】
 愛媛県東予地方局では、別子銅山の歴史と産業遺産を紹介するパネル展を
松山市で開催し、その後、東予管内5市町(今治市、新居浜市、西条市、四国中央市、上島町)を巡回します。
   松山展 場所:萬翠荘 
   期間:平成23年10月1日(土)~2日(日)
*詳しくは こちらへ

東予地方局 地域政策課 でした。

by ehimeblog | 2011-08-03 16:45 | 東予地方の観光

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