別子銅山・近代化産業遺産 鹿森社宅 パート2
2010年 12月 06日
閉山に至る別子銅山の歴史を、新居浜「まちづくり」の視点から辿れば、
職住が渾然一体となった近世の鉱山集落から、生産活動の分業体制が進み、
職住も分離した近代的工業都市への発展・変遷としてみることもできます。
新居浜市には、
市内各所に銅山関連の近代化産業遺産が多く遺されていますが、
これは銅山発祥の地である旧別子地区から、
「東洋のマチュピチュ」としてブレイクした東平(とうなる)地区、
現在マイントピア別子のある端出場地区、えんとつ山のある山根地区、
精錬所を移転した星越・惣開地区、更には四阪島と、生産の中核拠点が山間部から平野部へと徐々に移転したことに因るものです。
明治以降、近代化が進む中で、これらの拠点に勤務する人々、そして家族の生活の場である社宅街も、生産拠点に付随する形で移転してきました。
今回訪れた鹿森社宅は、端出場に選鉱場が設置された大正時代に、
そこで働く労働者と家族向けに建設されたものです。
当時としては東平に次ぐ社宅街にまで発展しましたが、
まもなく手狭になり、現在の山根グランド北側に川口新田社宅が建設されることになります。
当ブログ8月2日の「新居浜・星越 山田社宅そぞろ歩き」でご紹介した山田社宅は、更にこの後の昭和初期に建設されたものです。
建設工事は2期に分かれて行われ、大正5年に始まり同8年に終了しました。
資材は、旧別子地区にあった小足谷集落の建物を解体移転させたようだとのことです。
社宅街の中段には、小学校、運動場、商店や理容店など、生活のための施設も整備されていました。
ここで、お祭り、盆踊り、運動会、映画上映会等々、当時のいかなる集落でも見受けられた年中行事が行われました。
午後4時から8時までが入浴時間でした。
端出場で働いていたお父さんたちは、職場のお風呂に入るのが通例だったとのことです。
8月にご紹介した山田社宅とは違い、木造の家屋などは全く消えうせ、
土台の石積みとコンクリートや鉄製の構造物が遺っているものの、
全てが緑で覆われている感じです。
これが山田社宅とは違った風情を湛えていました。
殊に総延長が約1,800mにも及ぶ石垣は圧巻です。
建設後100年近く経っても全く崩れていないことも驚きです。
鹿森社宅の生活がどのようなものであったか、想像するしかありません。
案内役の“語り部”である河野さんによると
「互助の気持ちが強く、どんなことでもお互いに助け合う」
コミュニティだったそうです。
緑の森の中で、当時の生活を思い起こしました。
H.Iでした。
by ehimeblog | 2010-12-06 08:30 | 東予地方の観光